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眼科学教室の沿革

大阪大学眼科の特徴

大阪大学 眼科学教室 脳神経感覚器外科学(眼科学)講座の沿革

明治2年に大阪に医学伝習所(医学校)が創設されたのが阪大医学部の始まりとされているが、まだ眼科は独立しておらず、小児科の教諭が兼任していた。
明治24年3月に当教諭が退職することになったので、当時の校長が東大へ大阪医学校眼科教諭の適任者の推薦を依頼し、推薦された今居真吉が明治24年4月に教諭兼眼科医長として赴任した、ここに眼科学教室が開講され、今日の西田幸二第九代教授まで、平成22年現在で119年の歴史を刻んでいる。

現在に至る大阪大学の名称の変遷

明治24年4月〜

大阪医学校

明治34年6月〜

大阪府立医学校

明治36年9月〜

大阪府立高等医学校

大正4年10月〜

府立大阪医科大学

大正8年11月〜

大阪医科大学

昭和6年5月〜

大阪帝国大学

昭和22年10月〜

大阪大学

歴代教授一覧

今居 真吉 初代教授

明治24年~明治38年

東京帝国大学医科大学卒

明治24年4月20日付で、大阪医学校教諭兼眼科医長(現在の大阪大学眼科教授)に任命され、大阪大学眼科学教室が開講された。

今居教授の海外出張(2年)帰朝後の、明治34年(1901年)3月、20世紀の最初の年に、教室が第5回日本眼科学会総会(大阪クラブにて)を主催した。同年6月、大阪医学校は大阪府立医学校と改称された。さらに、明治36年9月大阪府立医学校は大阪府立高等医学校と改称した。
眼科医局の模様は、当時の病院の規模からいって、医局員と校長や医長との関係も極めて親密で、診療科は分立しているとはいえ、病院全体が一つの家族であった。
当時、眼科を専門とする医師は少なく、内科などの他科の医師が眼科の当直を兼ねていた。
医員は各々の科に配属されると同時に、その所属は各科共通であった。眼科の医員でも、当直になると病院全体の回診を行い、外傷患者や救急患者に対して応急処置をするばかりでなく、関節の離断手術までも行っていた。
病院の眼科患者の新患は1日2~3名、多い時で、5~6名であった。入院は14~15名で、外来患者数は春期で70~80名、冬期で30名程度であった。
眼疾患の種類は外眼部疾患が大部分を占め、筆頭がトラコーマと続発する角膜潰瘍であった。ことに膿漏眼で入院するものが多かった。
眼底疾患としては単性網膜炎、視神経萎縮、特殊網膜炎などがあった。
手術は今居教授を中心に、ほぼ毎日施行され、内反症、睫毛乱生症、翼状片、涙嚢炎などの手術が多かった。
眼瞼移植、虹彩切除、白内障手術もあリ、麻酔はクロロホルム全麻であった。
既に学生実習のための学用患者もとっておリ、学生が数名組をなして眼科に配属、実習をしていたことは、現在のポリクリ制と似ている。モルモットを用いた動物実験も施行されていた。

水尾 源太郎 第2代教授

明治38年~大正2年

東京帝国大学医科大学卒

水尾教授は明治38年11月に大阪府立高等医学校教諭に任命された。

明治41年2月、水尾教授はドイツヘ出張し、43年3月帰朝とともに本校に学位論文「特種顆粒性結膜炎に就て」を提出し、44年2月2日付で眼科では初めて学位の授与を受けた。
水尾教授が大阪に赴任すると、教室は俄然活況を呈し、眼科の新医局員は研究に没頭し、多くの教室員が学会で発表できるようになった。
明治45年6月小口氏病における水尾・中村現象を発見した。これは、時の教室員であった中村文平(後の第4代教授)によって発見された小口氏病の明暗順応による眼底の変色現象で、水尾教授が大阪医学会で報告した。水尾教授が発表した論文は23編を数えた。
論文の数においても、学会において発表された講演の数においても、当時水尾教授の右にでる人はいなかった。
教授の研究分野は眼の生理学、臨床は勿論であるが、教授は病理学に造詣が深く、阪大眼科で初めて、多くの病理標本を保存した。残念ながら、水尾教授は大正2年5月38歳という若さで、脳出血にてこの世を去った。

宮下 左右輔 第3代教授

大正2年~大正12年

東京帝国大学卒

宮下教授は大正2年8月、東京帝国大学講帥を辞し、大阪府立高等医学校教諭に就任した。なお、大正4年10月大阪府立高等医学校は府立大阪医科大学に改称された。

大正5年11月、宮下教授の発議で、第1回近畿眼科集談会が府立大阪医科大学(現在の大阪大学)で開催された(27題の講演)。
ちなみに、本会は終戦前後数年間は休会の止むなき状態が続いたが、昭和24年11月から「近畿眼科学会」の名称のもとに復活して、毎年秋に開催された。大正6年2月、府立大阪医科大学附属病院本館より出火し、病院および大学本部が焼失した。幸いにして基礎学科教室は類焼を免れ、病院の焼失したあとの眼科教室は、道を隔てた基礎教室の中で病理教室の一部を使用していた。大正6年10月現在の大阪大学医学部眼科同窓会の元である第1回大阪医科大学眼科同窓会が開かれた。
大正7年6月に仮病院(2階建ての急造バラック)が竣工され、新しい耐火病院が竣工したのは大正13年3月1日であった。大正8年11月大学令によリ府立大阪医科大学は廃止され、大阪医科大学となリ病院もそれに準じた。
眼科抄読会の始まりは水尾教授時代であったが、定期的に開かれたのは宮下教授時代である。月に一回定例日として、日曜日の午後をその時間にあて、会場は医局であった。大部分が教室員であったが、教室外からも参会する常連がいた。
大正12年9月1日関東大震災が起こリ、宮下教授の東京の実家も被害を受けた。同年12月宮下教授は大阪医科大学を退官した。

中村 文平 第4代教授

大正13年~昭和18年

大阪府立高等医学校卒

大正13年1月中村文平助教授の教授昇任が決定された。

大正9年12月に大阪医科大学学位規定が制定され、大阪医科大学が学位審査権を獲得したことが大学発展の大きな転機となった。
教室では、講師、助手、副手という教室員のほかに、専攻生、研究生という制度が設置され、開業の余暇をさいてこれらを志願し、大学の研究室に出入りするものが多くなったことに伴い、教室も大学らしく研究の機運が上昇し、現在の大学の3本柱である教育、研究、診療が全学的に確立した。
昭和6年5月勅令第67号により大阪帝国大学が設置され、大阪医科大学はその医学部となった。長岡半太郎初代総長のもと、眼科学をはじめ24講座の教室が設置された。昭和6年11月、長らく続いていた近畿眼科集談会を現在の中部眼科学会と改称した。昭和12年7月、北支事変が勃発してからの教室は慌ただしい世相を反映した。
多くの教室員が招集され、教室内は次第に閑散となった。中村教授は臨床および研究において不断の情熱を傾け、後世までも不滅の光芒を放っているのは、小口氏病における水尾・中村現家の発見である。昭和18年になり、日々息づまるような緊張の連続で、教室員も数名になり大学の教室の機能がほぼ崩壊しつつあった時、突然、中村教授は退官した(昭和18年6月)。

宇山 安夫 第5代教授

昭和18年~昭和32年

大阪帝国大学卒

昭和18年7月宇山安夫助教授が大阪帝国大学教授に昇任した。

戦争が長引き当時の教室には人手が足りなくなり、新しい卒業生はことごとく戦争に出た。眼科学会も昭和19年から21年の3年間は休会になったが、昭和22年春第51回日本眼科学会総会を大阪帝国大学で開催した。抄読会は、終戦前後においてさえほとんど休みなく継続した。
昭和22年10月、政令により大阪帝国大学は大阪大学に改称された。終戦後、社会環境共に、学会活動も少しずつ旧に復し、昭和23年1月に第1回大阪眼科集談会が復活開催された。戦後、ようやく教室の研究が盛んになったが、学位論文や研究成果を発表する機会が乏しかった。
当時、研究論文雑誌は『日本眼科学会雑誌』『日本眼科臨床医報』『臨床眼科』の3つの眼科雑誌があったが、宇山教授の主導、昭和25年1月『日本眼科紀要』が新たに発刊された。
昭和25年頃の教室の研究班として、眼圧・ERG・アセチルコリン代謝・水晶体・眼内温度・組織化学・生化学の7つの研究体制があった。当時の外来診療システムは、予診室、暗室、1-3診の診断室、洗眼台室、処置室に分かれ、患者は流れ作業式に診察されていた。スリットランプはあまり使用されず、点眼鏡とルーぺで診察が行われていた。
眼圧も視診と指圧による眼圧の推定が非常に重要で、他の診断技術も、先輩の技術を盗んで、教室員全貝早く一人前になろうと努力した。当時の手術では無影灯などはなく、教室員が照明係として右手に100Wの電灯、左手に13Dのルーぺを持ち、執刀中、絶えず手術野に集光しなければならなかった。光が少しでも外れると、直ぐに叱咤が飛んだ。
まさに当時の手術は見て習うものであった。昭和30年7月、大学院制度が開設され、後の眞鍋禮三教授が第1回生となった。昭和31年4月日本眼科学会創立60周年記念式典に際し、中村文平、宇山安夫両教授が多大の功績に対して表彰を受けた。
昭和32年秋の思いがけない重大事件後、宇山教授はその責任をとり、まず当時その職にあった大阪大学附属病院長を辞職し、ついで文部省関係の役職を辞し、さらに大阪大学を退官した。

水川 孝 第6代教授

昭和33年~昭和49年

大阪帝国大学卒

昭和33年3月、徳島大学の水川孝教授が第6代教授に就任した。

水川教授はまず研究室を大別して電気生理研、生化学研、生理研、組織化学研の4部門にして従来のセクショナリズムを排し、各部門に主任を配して毎週1回主任会議を開いた。
研究テーマ・支出・診療・人事などの教室の全事業を、この主任会議で決めることになった。外来診療は、red eye clinicからwhite eye clinicへと大きく変化した。洗眼は不要となり、洗眼台は姿を消した。外来は受持ち医制となった。
本邦で初めて眼科検査員を導入し、また、本邦初めての特殊クリニック制が取り入れられた。緑内障・網膜剥離・コンタクトレンズ・涙液外来などが設置された。これに伴い、検査機器も充実し、特に日本の大学では最初にゴールドマンの視野計が導入された。昭和35年には『日本眼科紀要』に続き、『日本コンタクトレンズ学会誌』を創刊した。次に昭和37年に初めて主幹校が束京を離れた第16回臨床眼科学会を主催した。
昭和38年には第67回日本眼科学会を大阪で開催した。水川教授が赴任後、約5年経過すると、教室も落ちつき、教授および教室の活動は海外に向けられた。昭和37年から3カ月、まず西ドイツのミュンヘン大学、統いて米国のジョンスホプキンス大学へ水川教授は出張した。この外遊が手掛かりとなり、その後ミュンヘン大学へは真鍋禮三(後の第7代大阪大学教授)、三村康男(徳島大学名誉教授)、東郁郎(大阪医科大学名誉教授)が、ジョンスホプキンス大学へは大鳥利文(近畿大学名誉教授)が留学した。
現在、阪大眼科から常に10名前後の教室員が海外に留学している盛況も、実はこの水川教授の海外出張に端を発したものである。昭和38年6月には、念願の大阪アイバンクが設立され、日本のアイバンク活動の発展に大きく寄与した。昭和43年、引き続く大学紛争の中、インターン制度が廃止され、42年卒のインターン終了者と43年卒業生が同時に眼科で研修を開始した。
5月より、欧米に習い、週末を自由研修とした週5日制勤務が実施された。外来の特殊クリニックも再編され、角膜移植・緑内障・ぶどう膜炎・眼精疲労・涙液・糖尿病・網膜剥離・神経眼科の8クリニックとなった。
昭和47年4月、かねてからの念願であった Institute of Ophthalmology創設の基礎ともいうべき透明組織研究室が文部省で許可された。本研究室は現在も阪大眼科の研究母体となっている。

眞鍋 禮三 第7代教授

昭和49年~平成3年

大阪大学卒

昭和49年5月1日付で、眞鍋禮三講師は教授に昇任した。

眞鍋教授の初期の研究分野は電気生理であったが、留学したボストンで初めて角膜の研究に従事し、角膜に含まれる「水」の問題、コラゲナーゼ、フィブロネクチン、ヘルペス感染症などに関する多くの業績をおさめ現在の日本角膜学会の基礎を作った。また昭和62年から2年間、関西では初めての日本眼科学会理事長を務めた。これに伴い、以後医局会は金曜夕から水曜夕に開催されるようになった。
教室運営は総務(医局長:対外的な名称)、人事、会計、教育、研究、病棟、外来の7部門に分けられ、各々の部門に主任を置き、各主任の任期を2年とした。毎月1回主任会議が開かれ、研修医・大学院生の代表である代議員長を加え教授を囲んで、教室運営について協議した。昭和41年よりインターン制度廃止および医局講座制反対の運動があり、その運動の一つとして「臨床系大学院ボイコット」があった。その結果、・阪大眼科の大学院生も昭和41年から昭和53年まで、教室に在籍しなかった。眞鍋時代に入ると、昭和54年から大学院生の入学が始まり、それと時を同じくして、海外留学後の教室員の帰朝により、研究活動は活発化した。
また大学医学部の定員増や医大新設による医師増加に伴い眼科入局者も10名を毎年越すようになり、関連病院眼科の医師定員が増加し、充実した関連病院群を擁することになった。
昭和59年度から日本眼科学会と日本眼科医会が眼科専門医制度を導入した。阪大眼科では、この制度に従って、卒業後5年間に大学病院と2か所の関連病院で研修できるローテーション方式をとるようになった。
昭和63年4月からそれまで各専門外来では曜日により別の教官が担当して週2回診察を行っていたのを担当者全員が集まって週1回だけ診察を行うよう変更し、現在に至っている。昭和53年、教室としては初めての国際学会である第3回国際眼研究会議(ICER)を主催した。
水川名誉教授が会長、眞鍋教授がTreasurerであった。昭和55年、第34回日本臨床眼科学会を主催した。本学会としては初めての学術展示を採用した。平成2年には、第13回日本眼科手術学会を大阪で開催した。

田野 保雄 第8代教授

平成3年~平成21年

大阪大学卒

平成3年9月、阪大眼科開講101年目に国立大阪病院眼科の田野保雄医長が大阪大学眼科教授に就任した。

田野教授は教室から海外への留学が途絶えていた時期に、マカマー教授の元で研鑚を積み、その後多くの若手の医師が阪大眼科から海外に雄飛する先鞭を切った。平成5年に、長年の懸案であった阪大病院の移転が実現し、2か月間の移転作業の後に9月から新病院が稼働した。“Intelligent Hospital”として生まれ変わった新病院では各診察ブース(計13個)に2台ずつコンピューターが備わり、病棟も含め、診察の予約・薬剤処方・検査オーダーなどの他、デジタル化された眼底写真や細隙燈顕微鏡写真のファイリングなどすべてコンピューター化している。
3つの手術室には天井懸架手術顕微鏡をはじめ、多数の最新診療機器が、また広くなった外来にも既に夥しい数の最新診療機器が所狭しと設置されている。
外来と同様に拡張された病陳の診察室も充実し、レーザー室やカンファランス室他も設けられた。平成4年頃より国内外から多くの留学生が教室に在籍している。平成7年7月には、教室では初めて米国人眼科医をClinical fellowとして迎えた。
また、中国、韓国、トルコ、チリなど世界各国より研究のため多くの眼科医が教室に参加している。平成7年1月に関西眼科先進医療研究会が発足し、国内外の講師を毎月1~2名招いて活発な討論を行っている。平成11年4月、大阪大学は大学院大学となり、眼科教室も耳鼻咽喉科教室との大講座制により、感覚器外科学(眼科学)講座と改姓された。
学会としては、日本網膜硝子体学会、日本糖尿病眼学会、日本コンタクトレンズ学会、日本眼科手術学会、あるいは香港において加齢斑変性と中心窩移動術国際シンポジウムを開催した。

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